Piroと歩む歴史 ~1982年3月~ 1回目

1)1982年3月(0ヶ月)

 Piroは1982年3月6日土曜日に約3,400gで生まれた。

母は長野県出身で里帰り出産。長野県の日赤で生まれた。その後、父の仕事は京都だったので京都にて住み始める。一方、歴史は何があったのだろうか。

 

 1982年3月18日「釜山アメリカ文化院放火事件」が起きる。反米主義者の学生達が放火した事件だ。朝鮮戦争で米国は韓国を守るために多数の戦死者を出し米国をは韓国を守ってくれた「命の恩人」と崇拝しており1980年代初めまで約70%の人が親米派だったのだが、ある事件をきっかけに空気が変わる。それが1980年の「光州事件」だ。1979年10月に18年独裁政治を続けた朴正煕(パク・チョンヒ)大統領が射殺される。韓国国内では民主化ムードが続いていたが、同年 12月 12日の「粛軍クーデター」で権力を握った全斗煥 (チョン・ドファン)少将を中心とする若手将軍グループは1980年民主化を求める光州市で起きた街頭デモと衝突した事件が「光州事件」。当時、韓国軍の指揮権は在韓米軍が握っており民主化を求める市民の間には「光州事件」に米軍が承認したと疑念が生じた。その流れで「釜山アメリカ文化院放火事件」が起きたのだ。現大統領の文在寅は「光州事件」に参加し民主化を訴えていた。と、ここまでは表の話。

 

 ここからは裏話。当時、学生運動のリーダーであった金永煥(キム・ヨンファン)は「韓国は米帝国主義の植民地」と運動し北朝鮮の国家思想チュチェ思想を広め研究を始めた。そして「韓国チュチェ思想の父」と呼ばれる人になったのだ。金永煥の後輩には国会議員の李石基(イ・ソッキ)という人物がいた。李石基は逮捕ばかりされていたが文在寅の働きで釈放されてきた。更に文在寅の同僚で司法修習から同期生である朴元淳ソウル特別市長も学生運動に参加していた。この4人の共通点はチュチェ思想を崇拝していることだ。「光州事件」から民主化運動と反米感情を利用しチュチェ思想を広めようとしていた確信犯である。「釜山アメリカ文化院放火事件」もチュチェ思想が絡んでいたのだろう。2019年の韓国を振り返ると当時も今もこの方々のイデオロギーは変わっていないことがわかる。チュチェ思想の詳しいことは追って書くことにする。

 

 韓国国内でチュチェ思想が広まる頃にPiroは生まれた。これも何かの縁か。

 

参考文献

なぜ彼らは北朝鮮の「チュチェ思想」に従うのか 篠原常一郎・岩田温 育鵬社

中央日報 https://japanese.joins.com/JArticle/157435

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